文豪語録

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信長がひところ切支丹の最大の保護者であったことは人に知られているが、晩年に於て切支丹の敵となり、外国宣教師の呪いをうけていることは案外知られていない - 坂口安吾『明日は天気になれ』

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エライ狂人の話(3)

 信長がひところ切支丹(キリシタン)の最大の保護者であったことは人に知られているが、晩年に於て切支丹の敵となり、外国宣教師の呪いをうけていることは案外知られていない。
 なにぶん信長の伝記作者の目から見ると、切支丹の問題はさしたることではなかったから、具体的にどんな弾圧をしたかということはよく分らないが、外国宣教師が本国へ送った報告によると、信長が悪魔にみいられて信教の敵となり、そのあげく奇妙なことを発案し実行しつつあるように伝えている。
 それによると、信長は安土城内に総見寺をつくり、その本尊として釈尊ではなく、彼自身の像を飾ることを考えている。信長は日本中の人間に自分の像を礼拝させる野望にみいられて悪魔になったというのである
 安土城と総見寺が完成して今日に残っていると嘘か本当かも分るし、とにかく信長というはなはだ独創的な人物の独特の着想も知ることができるのだけれども、わずかに土台ぐらいしか残っていないから、何も分らない。
 しかし、切支丹教徒の邪推にしても、信長が自分の像をお寺の本尊にして、日本中の人間に礼拝させる野望につかれているというのはいかにも独創的で面白い。邪推としても独創的であるし、本当としても独創的だ。どっちにしても痛快的にバカげている。
 信長は一面非常に謹直で合理派で現実主義者でありながら、宗教を軽蔑しつつ独特な角度からいつも宗教と甚だ密接につながっていたり、晩年に至ってまだ日本の半分も平定しないのに支那、朝鮮の征服を壮語したり、また明智光秀と妙にモツレた友情をもつに至っている点など、彼の性格に於て狂気と紙一重のところにあるものか、晩年における狂気の事実を考えさせるものがあるように思う。
 彼の一生の行跡では喧躁なほど開放的なものと、蓋を閉じた貝のように陰気なものとが交錯していて、一見して彼ほど激烈で狂的な独裁者は日本の史上では類が少いように思われる。……

 

坂口安吾『明日は天気になれ』より)

 

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坂口安吾のプロフィール

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。

坂口安吾 - Wikipedia

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