文豪語録

明治から昭和くらいまでの文豪たちの名言や名文、格言、迷言、珍言を載せていきます。

こッちが興味を失えば、碁将棋ぐらい見ていてつまらないものはない - 坂口安吾『明日は天気になれ』

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珍試合の巻

 私は終戦後どういうキッカケであったかわからないが碁、将棋、野球、ボクシング等々実に雑多な観戦記の依頼をうけ、まるで観戦屋という新商売の元祖の観を呈したことがあった。二代目が現れないうちに元祖も廃業してしまったけれども、なぜ廃業したかと言えば、こッちは碁将棋をよく知らないから、見ていても全然わからないのに、徹夜のオツキアイをするのは何とも辛くて仕様がないからである。いったん辛いと思い出すと、三十分のオツキアイも辛くなる。こッちが興味を失えば、碁将棋ぐらい見ていてつまらないものはない
 そういう次第で、いろいろと時の大勝負、大試合を見物した中で、一ツだけ二度と見ることができそうもない珍勝負があった。


 呉清源と岩本本因坊との十番碁の第一局であるが、当時、呉清源をめぐってモロモロの十番碁が行われて、みんな呉清源の一方的勝利に帰している。そういう十番碁のうちで、終戦後における公式十番碁のトップを切ったのが、この岩本本因坊との対局で、ましてその第一局であるから重大な一局だった。
 ところが、この第一局は呉清源がコックリコックリ本当に居眠りしながら勝ってしまった。バカバカしいといったって、これぐらいバカバカしい対局があったものではない。あのときは、呉清源がまだジコーサマ〔璽光尊〕のお弟子のころであった。
 二人の対局棋士観戦記者の私の三人は対局の前夜七時までに東京小石川のモミヂという対局場の旅館に集合して、その晩から対局の終るまでまる四日間門外不出カンヅメになる規定になっていた。
 このカンヅメは呉清源からの申出によるもので、呉清源がなぜこのような申出をしたかというと、今から二十年ほど前に当時五段の呉清源本因坊秀哉名人とが対局したことがある。このとき呉清源必勝の局面が打ち掛けになったとき、坊門の棋士が総勢集まって研究し、前田六段(当時)がついに起死回生の名手を発見し、そのために碁がひっくり返って本因坊の二目勝になったという秘史があるからなのである。
 本因坊戦にはこういう因縁があるから、呉清源が要心深く対局者の門外不出絶対カンヅメを厳重に申出たのはモットモなことでもあった。
 ついでに観戦記者の私までがカンヅメになる必要はなさそうなものだが、私は一歩門外にでると、銀座へ消えるか、新宿へ消えるか、消えたが最後二、三日は行方不明という悪癖があって、碁の因縁とは関係のない理由によってカンキン状態にされてしまったのである。……

 

坂口安吾『明日は天気になれ』より)

 

坂口安吾のプロフィール

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。

坂口安吾 - Wikipedia

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