文豪語録

明治から昭和くらいまでの文豪たちの名言や名文、格言、迷言、珍言を載せていきます。

日本人全体が精神的にゲリラ化していた時世でもあったのである - 坂口安吾『明日は天気になれ』

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立直りの試合の話

 私が観戦記者として見物したいろいろの試合の中で世間的にはさして重大な対局ではなかったけれども、私にとってはどれよりも忘れがたいものが一ツある。
 昭和二十二年の暮ちかいころであったと思う。その年には、それまで不敗を誇っていた将棋の木村が塚田に敗れて名人位を失った。それからというもの、木村は全く気持の上でダメになったらしく、順位戦でも、他の対局でも負けつづけで、哀れサンタンたる有様であった。
 そのとき、名古屋の某紙の主催で、木村と升田の三番将棋の第一局が行われることになった。この第三局目はたしか九州で行われたように記憶するが、私のはその第一局目で、名古屋市で行われた。……

 

 ……名古屋へついたら、市の中央いたるところ丸坊主の原ッパばかりで、復興のおそいのに呆れ果てたのを忘れない。……
 そこへもってきて、名古屋の新聞の御歴々というのが、どれが社長で、どれが編集局長で、どれが平社員だかとても区別のつけようがなかったのであるが、いずれもゲリラ部隊の新聞隊員という活気横溢の気鋭の士で「名古屋にもちょッとしたコーヒーを飲ませるウチがあるから」と、ワッショイ、ワッショイ、バラックのコーヒー店を占領する。


 当時はちょッとしたコーヒーを飲ませる店がたしかに国宝的な時世であったが、国宝を鑑賞するにしては、どうも作法が荒っぽい。ゲリラ部隊が博物館へ坐りこんだような勇しい風景であった
 それより設けの酒席へくりこむ。ところが当時は料亭閉鎖の暗黒時代であるから、レッキとした新聞社の宴会だというのに、クラヤミの裏木戸からコソコソと泥棒のように一人ずつ忍びこむ。日本人全体が精神的にゲリラ化していた時世でもあったのである


 一パイ飲むまでの道程がこのようにゲリラ以外の何物でもなかったから、酒がまわると、大変な騒ぎになってしまった。もっとも、この責任の半分ぐらいは、あるいは私が負うべきであったかも知れない。
 なにぶん私の外套のポケットには私の飲みしろに用意してきたウィスキーが一本ぶちこまれている。新聞社の人々は「名古屋に於ては名古屋の酒を」と云って、はじめはなかなかウィスキーを飲ませてくれなかった。相当酒がまわってからウィスキーを飲みはじめたから、なおいけなかった。
 おまけに新聞社の御歴々は見かけのゲリラ風にも拘らず、義理堅いこと夥しく「その貴重なるウィスキーは一滴たりとも我々の受くべきにあらず」と固辞してついに誰も受ける者がいないから、ウィスキーは升田と私がほゞ半分ずつ、一滴ものこさず飲みほしてしまったのである。そこで升田が酔っぱらってしまった。


「木村は弱い。ワシァ木村を負かしたとき、あとで並べて研究してみたら、読みの深さが違うとるのを発見して、なんや木村ちゅうのはこんなもんか思うた。こんなヘボには負けとうても負けられん。なんぼでも負かしたる」
 次第に大きな声で叫びはじめた。元々地声の大きい升田のことで、ついに部屋一パイに響き渡る大音声となってしまった。……

 

坂口安吾『明日は天気になれ』より)

 

坂口安吾のプロフィール

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。

坂口安吾 - Wikipedia

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