文豪語録

明治から昭和くらいまでの文豪たちの名言や名文、格言、迷言、珍言を載せていきます。

人間というものはハッキリと目的が定まり、それに向かって進む時がいちばん強いものである。 - 坂口安吾『明日は天気になれ』

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目的を失った脱獄囚

 死刑囚が脱獄したというので、その夜の東京は戒厳令下のような物々しさであったらしいが、翌日事も起さずに京都で縛についたのはおめでたい。
 彼らが脱走直後誰何(すいか)をうけたときは、一人は本名を名乗り、一人は実物の外人登録証を示して、不逞な気概当たるべからざるものがあったようだ。
 ところが、翌日京都で誰何をうけたときは、疲れきってトボトボ歩いておって、前日の不逞な気概はもうなかったらしい。


 毒を食わば皿までと云って、どうせオレは死刑になる身だからと、自分の生存慾をとげるために無造作に人殺しを重ねそうに思われるけれども、人間はそう理づめ一方に行為できるほど単純な動物ではないようだ
 人を殺したその場に於ては血に狂って、毒を食わば皿までと、無抵抗な幼児などまで一撃のもとに殺すような例は多々あるようだが、いったん興奮がおさまれば、オレは死刑になる身だからという理論を立ててむやみやたらに人を殺すことがそう簡単にできるものではなかろう


 我々の実生活をふりかえっても、理論的に行為するということは大そうな難事業である。何でもして働く気になれば人間生きられないことはないと分っていても、昔の地位や身分にとらわれて生活苦に追われ自殺するというような例も少くない。


「ヤイ、八五郎、そこへ坐れ。お前またカミサンをぶんなぐって片腕を折っちまったそうだな。バカヤローめ。男の力というものは、そんなところに使うもんじゃねえや。女というものは弱いもんだ。いたわってやらなきゃアいけねえ」
 なぞと威張って説教しているクマ公が、それから五分後に、女房の返答が気にいらないというので、脳天に一撃を加えている。八五郎がおどろいて、
「よしねえ、クマアニィ。女というものはいたわらなくちゃアいけねえと、いまオレに説教したばかりじゃねえか」
「何を云やアがる。オレのことはオレでするんだ。よけいなお世話だ」
 だいたい人間の行為はこの程度にガンゼないものと見てよろしかろう。誰しも人にお説教する程度の物の理は弁えていても、自分自身が理の如くに行為できるわけではない。

 

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 二人の死刑囚は脱獄という目的に全精力をすりへらしたのかも知れない。そして、脱獄の興奮がつづいているうちは、誰何されても不逞な気概にあふれていたが、その興奮がしずまると、やっぱりタダの人間だ
 脱獄という差しせまった大目的に比べて、脱獄後どうしようという目的はバクゼンたるものであったろう。したがって、脱獄という目的を果たし、その興奮がおさまった後では、途方にくれたかも知れない。


 人間というものはハッキリと目的が定まり、それに向かって進む時がいちばん強いものである。生命力が完全燃焼するのも、その時である
 脱獄という目的に生命力の限りをつくし、目的を果たしたあとで途方にくれていた二人の死刑囚を考えると、いじらしいような気持にもなるのである。

 

坂口安吾『明日は天気になれ』より)

 

坂口安吾のプロフィール

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。

坂口安吾 - Wikipedia

 

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