文豪語録

明治から昭和くらいまでの文豪たちの名言や名文、格言、迷言、珍言を載せていきます。

天草島原の乱を調べにそのゆかりの土地を見て歩いた - 坂口安吾『明日は天気になれ』

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悲劇のままの城趾

 私はたしか昭和十六年であったと思うが、天草島原の乱を調べにそのゆかりの土地を見て歩いた。そのとき、原城の跡がほぼ原型のままになっているのに一驚したのであった


 もともとこの城は天草四郎が立てこもったときにすでに廃城であった。
 新しく島原城を築くために有馬の原城をとりこわし石垣などを島原へ運んで新築の城の石垣に用いた。
 したがって、原城の方は城の建物や石垣が取り去られて、丘だけが城の姿をとどめていたのである。


 天草四郎はここへ籠って、バラックの城をつくり、失われた石垣の代りには竹矢来や木柵をめぐらした。
 幕府軍はその対面の丘に砲台を築いて攻撃した。その大砲のタマは原城までとどかなかったが、砲台は昔の図面通りに今もその姿を知ることができる。

 

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 しかし一番おどろくべきことは城址で、建物と石垣はないが、形はそっくり往時のままといってよい
 籠城の百姓軍が全滅したとき、城内の空壕の中に女子供が三千人隠れているのが発見され、これが棄教を肯んぜず、喜々として斬首された。「喜々として」死んだことは松平伊豆の長男の日記に書かれている。こうして城内の者は、男も女も子供も全滅してしまったのである。


 このときの女子供三千名が隠れていたという空壕まで、昔のままと信ずべき姿で現存しているのである。広さは百坪ほどもあろうか。深さはかなり深い。四メートルぐらいかも知れぬ。そこへ降りて行く道はないのに、ジャガ芋畑になっていた。


 この空壕の底面を耕している百姓は、自分の昇降や、肥桶の運搬にどういう方法を用いているのだろうかと私はいぶかった。
 島原の乱から三百余年もすぎているのだから誰かが昇降の道ぐらい作ってもよさそうなものだ。三百何年間、道をつくらずに梯子かなにかで用を弁じているのだとすれば、痛快きわまるほど悠々たる世界ではある。

 

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 私はおかしくてたまらなかったから、梯子の所在や、梯子の昇降口と見られる地点を捜してみたが、一面の畑があるばかりで梯子などは存在せず、また特に踏み荒された所も、昇降口と目される空地も見出すことができなかった。


 今ここを耕している人たちは、ここで戦死した人たちの子孫ではないのである
 このへんの農民はみんな原城にこもって老若男女ともに全滅してしまったから、一揆に参加しなかった二、三の村をのぞいて南高来郡は全く無人の村となり、累々たる白骨だけが天日にさらされていたのである。
 その状態で十年すぎ、十年目に他国から農民を移住させて、新しく村をひらき、耕作をはじめたのだ。


 はじめの十年ぐらいは、この空壕や城址を怖れたかも知れないが、そんな気持が永続するはずのないことは広島、長崎の例でも知り得よう。だから三百余年すぎて昔の原形のまま畑と化しているのも他の理由によるものであろうけれども、昇降の道すらもいまだにないとは突ッ拍子もない話であろう。

 

坂口安吾『明日は天気になれ』より)

 

坂口安吾のプロフィール

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。

坂口安吾 - Wikipedia

 

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